現在の住居になる前、本職の仕事の都合で転居をしましたが、その頃はキャッテリーを一時 休眠状態にさせていました(後述します)。そして現在の住まいに落ち着いた頃、再開しようと諸々の手続きを聞くと新規扱い。おまけに苗字も住所も電話番号も何もかも変わっていたので、アメリカ本部の登録も何もかもやり直し。主人と結婚した当初は旧姓のままでブリーディングしていました。まぁ別にそのままでもいいっちゃいいのですが、でもそれも今後色々と不便も出るかもしれないし。それならばいっそ、キャッテリーネーム(猫舎名)もロシアンブルー専門のものに変えよう!と現在のキャッテリーを持つに至りました。ちなみに前猫種のキャッテリーネームも今も一応生きています。
一時的にキャッテリーを休眠状態にしていた理由は、我が家は少数繁殖、出来るだけケージを使用したくない、出来るだけ数を増やさない、をモットーにしていますので、シニア達を見送る前に新たに繁殖をスタートすると数が増えてしまうのでお休みしていました。
子猫を産ませていない間はブリーダー業務をしている訳ではないので、更新料ももったいないので更新を止めていました。それが休眠期間です。
ブリーディングは私にとって人生であり、ライフワークの様なものですので、自分が歳をとって猫たちの一切のお世話が出来なくなるまで辞めるつもりはありませんが、シニア達を見送る時期というのは定期的にやって来ます。それも超多頭飼育を避けたいためで、20年くらいに1度、また休眠期間は来ると思います。
次の休眠期間のあと、それ以降は…
どうだろうな~まだ出来るかなぁ…長生きしてサードステージに行きたいなぁ。
繁殖を始めたのは1994年からです(アメリカ本部への登録は1995年から)。子供の頃から猫と暮らしていますので、猫がいない時期はこれまでの人生で2回だけ、合計で2年もないですかね。そのくらい、猫と共に人生歩んできてます。
ブリーダーを始めた当初は、スコティッシュフォールドのブリーディングをしていました。色々あって(この辺はまた改めてブログに書きます)スコの繁殖は早々にやめました。数年後にアメリカンショートヘアに転向、それ以降はアメショを専門に、細々とブリーディングをしていました。(この辺がファーストステージで現在のロシアンブルーがセカンドステージって感じ)
アメショ時代の後半は、とにかく本職の仕事が忙しい時代だったので、その頃は出産も年1回がやっとで、ショーの出陳も1年に1回行けるか行けないか、いや全然行けてなかったな、でした。その代わり、子ブリーダーやお譲りしたオーナーさんが我が家の猫を時々ショーに出してくれていたので、それを覗きに会場へは行ってました。
段々とショー自体が縮小傾向にあり、出陳頭数も減っていきました。私がやり始めた当初はすごく頭数が多く、地方でも今の1.5倍は出てましたね~。現在だと世の中コロナ騒ぎ、ですがその頃はリーマンショックなど不景気騒ぎ、といった感じですかね。ショーで勝ったからといって賞金が出るわけではありませんし、ブリーダーはお金のかかる趣味で道楽ですから、そういった趣味の世界から人が減りつつあったのでしょうね。その頃くらいから周りのブリーダーさんも辞めていかれる方もチラホラ。
最近だとやはり、許可の問題と有資格者というのが大きな壁なのかと。今更勉強して資格を取るって、歳をとってくると集中力も続かないし大変な事だと思います。
まぁ運転免許と同じで落ちてもまた受ければいいのですが、私は家業が塾ですから生徒に示しがつかないので、一度でも落ちる訳にはいかず笑笑 おかげ様で一発合格でしたが、かなり必死で勉強しました。
ちょっとお値段は高いですが、簡単な資格もあるにはあるのですが、それだと数年に一度更新が必要になるので、私は更新なしの難しい方を選びました。やめて行かれたブリーダーさん達はとにかく勉強が嫌、とか何故に今さら資格?とかを耳にしました。お気持ち、分かります…
でも勉強して良かった事もあります。異常に鳥に詳しくなりました🐤インコとかオウムは実家でも飼っていたので今も好きですけど、詳しくはなかったので色々勉強になって楽しかったですね。あとはうさぎも実家に居ましたが、この資格の勉強をするまで食べさせてはいけないものなどまるで知らなかったので、無知って怖いと改めて思い知りました。
もう少し若ければ、トリマーの資格も欲しいなと思った事もあるのですが、先ず手先が器用でない爆 そしてひどい腰痛持ち。ダメじゃん…
でもトリミングのプロなら猫洗うのもお茶の子さいさいなんだろなぁ。この言葉、死語なんだろうなぁ。
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